“茶”の呼び名は伝播ルートで異なる2通り
茶の飲用起源は紀元前2700年頃の古代中国にさかのぼり、茶樹の原産地はアッサム地方(アッサム種)と中国西南地域「東亜半月弧」(中国種)であるとされています。また、陸路と海路それぞれ伝播ルートの違いにより、その呼び名は2通りの系譜に分かれていきました。
【陸路伝播型 =Cha 】
広東語の発音である「Cha=チャ」は陸路を経て、北京、日本、モンゴルからロシアなどの北方へ伝播。西方へはシルクロードを経て、チベット、ベンガル、インド、中近東からトルコなどへ広がり、これらの国々では「Chai・Chaya・chay・tsai」など呼ばれています。
【南海海路伝播型 =Tea 】
古い文字の「荼(ト)」に由来している「te」は中国福建省アモイから、海洋ルートを経てオランダをはじめ西欧・北欧へと広がり、「tea・tee・the・they・thee」などと呼ばれるようになりました。しかし、ポルトガルでは日本や植民地であったマカオから茶を輸入したことが始まりのため、現在でも「Cha」と呼ばれています。
身を清め心をとき放つ日本茶の歩み
今や日本の食文化の象徴ともいえる日本茶。その記録が最初に登場したのは奈良時代後期のこと。そして平安時代まで、茶は唐より種子を持ち帰った僧が栽培し天皇へ献上するなど、一部上流階級の飲料として扱われてきました。その後鎌倉時代に入り、禅宗・栄西が宋から持ち帰った茶の種子を筑前脊振山(福岡県)に蒔き栽培したことが、日本における茶栽培の起源と伝えられています。栄西は九州をはじめ日本各地へ茶を広めながら、晩年には製法や効果効能などをまとめた日本最古の茶書『喫茶養生記』を書き上げ、日本茶の歴史に大きな礎を築きました。
鎌倉時代末期になると、貴族や武家の間で茶を飲んで産地を当てる遊び「闘茶」など、新たな茶の文化が形成され、室町時代中期以降には、茶に禅の精神を見出した「侘び、寂び、幽玄」を基礎とする茶の湯「侘茶」が体制化されます。なかでも千利休は時の権力者に寵愛され、戦国武将をはじめ茶の湯は政治にも利用されるようになりました。
江戸時代に入ると武家社会で茶の湯が定着し、各地で生産と流通が活発化。鎖国中の日本を訪れた海外の要人たち
が、日本独自の茶の文化に感銘を受けたことが諸国の出版物に数多く残され、1610年には長崎県平戸から日本茶が初めてポルトガルへ輸出されます。ヨーロッパの紅茶文化は今や世界的なものですが、西洋に初上陸した茶が「緑茶」であったことを知る人は、多くはありません。
江戸末期には、新芽を蒸して煎茶を作る「宇治製法」が全国に広まり、日本茶はますます洗練されていきます。さらに、幕末から明治時代にかけて、茶は生糸とともに重要な輸出品の柱となり、大正・昭和時代には、世界各国で多種多様な茶が流通し需要が急増。日本も輸出品として紅茶生産に力を入れながら機械化を進め、日本茶の品質安定化が実現されていきました。
そして戦後、輸入の自由化や嗜好の変化により、国内での緑茶の需要は一時的に減少。しかし近年では、缶やペットボトルの登場もあって、緑茶飲料は日本において市場のトップを締めています。また、緑茶に含まれる様々な効果効能が科学的に立証されたことから、日本茶は再び世界中から注目を集めています。