大海原をわたった茶葉たちの歴史
鹿児島茶の起源は1185年頃、阿多白川(南さつま市)で平家の落人が茶栽培を始めたという説話をはじめ、栄西が日本最古の禅寺のひとつとして1194年に開山した感応寺(出水市野田)に、茶の種子を播種したという説。さらに1319年に吉松(姶良郡湧水)の般若寺の住持が宇治から下山し、茶の木を植えて製茶を伝授したという説や同じく般若寺にて、1320年に足利尊氏が九州に陣を定めた際、宇治から持参した茶の種子を播種したなど、各地で茶栽培が始められた口碑や記録がいくつも残されています。
茶の文化を重んじた薩摩・島津家
なかでも栄西は日本茶の歴史に大きく貢献した人物で、宋から帰国後、しばらくの間九州地方に滞在した際いくつかの寺院を開山し、島津家初代当主・忠久が創建した感応寺もそのひとつです。忠久は幼少の頃、後に宇治茶の祖と呼ばれる京都栂尾山・高山寺の明恵の元で養育されており、明恵に種子を贈り宇治茶栽培のきっかけをつくったのも栄西といわれています。この栄西との出会いからはじまり、その後島津家は約700年の間、薩摩一帯を統治する藩主として茶との関わりを深めていきます。
1532年には島津忠良(日新公)が茶の栽培を推奨し、自ら植え付けたとされる茶園が南さつま市加世田に残されています。また、その孫にあたる17代当主島津義弘(惟新公)も茶の湯を愛した人物です。千利休について白沢覚左衛門(渋谷伴松)を相伴弟子として茶道を学び、摂州(大阪府)伊丹道甫を通じて千利休に茶法をただし、その伝授を得たことが『惟新様より利休へお尋ねの條書』に記されています。さらに義弘は豊臣秀吉とも茶の湯を立て、秀吉自身から「かたしきの茶入」を賜ったなど、茶に関する記録も多々残されています。
江戸時代に入ると各地域の領主が茶の貢租を全廃して栽培を推奨し、茶の種を宇治から取り寄せて茶園を仕立て、使節を送っては茶の製法を学ばせるなど、茶の栽培が活発になります。また1843年に刊行された『三国名勝図會』には、藩内の茶産地や茶の質などが詳しく述べられており、薩摩における茶文化の広がりと痕跡がうかがえます。
その後、ペリー来航を間近に経験した薩摩藩士や幕末の商人が明治にかけて、茶業推奨事業を行い輸出への弾みをつけます。世界的に茶の需要が高まった大正から昭和初期には、輸出用紅茶の栽培も積極的に行われ、鹿児島茶は次々と海を渡っていきました。さらに第二次世界大戦後は、数年間で過去最高の生産高を更新し復興を遂げ、さらなる品質の向上のために「ゆたかみどり」をはじめ、新たな品種の栽培も進められました。そして昭和50年代には静岡県に次ぐ日本茶の名産地となり、現在では世界各国からその気候風土、各茶葉の個性を活かした鹿児島茶への注目が高まっています。