1185年頃 | 平家の落人5人が日置郡阿多村白川にて茶栽培をはじめたという。 | |
1191年 | 栄西が宋から平戸に帰国した際、茶種を将来しその茶種を筑前脊振山(佐賀県)はじめ各地に播種。 | |
1194年 | 島津家初代忠久が野田「感応寺」を創建し栄西が開山。 | |
1319年 | 吉松「般若寺」の開山住持が宇治から下山し茶の木を植え、製茶して門徒に伝授したという。 | |
1320年 | 吉松「般若寺」に足利尊氏が本陣を定めた際、城内に宇治から取り寄せた茶種を播種したという。 | |
1532年頃 | 島津忠良(日新公)が茶を推奨する。(写真①) | |
1587年 | 島津義弘(維新公)が千利休から茶の湯の伝授を受ける。『維新様より利休江お尋ねの状書の写し』 | |
1626年 | 薩摩藩が茶道坊主をおく。 | |
1644年 | 宮之城領主・島津久通が宇治より茶種を取寄せ茶園を仕立てさせる。 | |
1646〜 1699年 |
吉利城(日置郡)領主・禰寝清雄が茶を推奨。 | |
1687~ 1704年 |
島津綱貴が一時茶の貢租を全廃し茶を推奨。 | |
1688年 | 姶良郡牧園町に茶の大樹があったと伝えられている。 | |
1718年 | 薩摩郡下東郷村・桐原与市が茶園を栽培し製茶したという。 | |
1744年 | 川辺郡(南九州市川辺町)の宝福寺の茶を幕府に献上。 | |
1751年 | 都城(宮崎県)領主・島津久茂は池田貞記に命じ茶栽培と製茶法を宇治で学ばせ、都城茶をつくりだす。 | |
1757年 | 島津久茂が桃園天皇に都城茶を献上。 | |
1751~ 1764年 |
阿久根大同寺の芳円が宇治茶の製法を受けて郷土に伝える。 | |
1789年~ | 阿久根地域で茶会が開かれる。 | |
1799年 | 下東郷村・桐原与市が製茶を四国方面に移出するようになる。 | |
1818年 | 島津斉宣が宇治から茶種を取寄せ出水、阿久根、下東郷の3か所に播種する。 | |
1825年 | 島津斉宣は阿久根の小木原三楽を茶業伝習のため宇治に遣わせる。 | |
1843年 | 薩摩藩編纂により、薩摩国・大隅国・日向国の一部の領内や地誌、名所を記した『三国名勝図会』がまとめられ、島津藩内の茶産地や茶の質なども詳しく述べられている。 | |
1860年 | 薩摩藩は製茶の移輸出を解禁。 | |
1863年 | 都城に薩摩藩直轄の製茶所が設置される。 | |
1866年 | 阿久根村の白浜治右衛門が宇治に赴き、玉露の製法及びその他の茶製法を伝習して手法を郡内に広める。 | |
1878年 | 政府が『紅茶製法伝習規則』を発令し、鹿児島県、福岡県、静岡県、東京府に伝習所を設置。 | |
1879年 | シドニー万国博覧会に紅茶を出展。 | |
1880年 | 政府が紅茶伝習所分製所を鹿児島県、大分県におく。 | |
1887年 | 鹿児島県茶業組合が製茶研究のため海外へ伝習生を派遣。緑茶を日釜炒り茶から湯蒸し製法へ変換する伝習所を開設。(写真②) |
1915年~ | 伊集院村、隼人町を皮切りに機械製茶工場が各地に設立される。 | |
1917年~ | 摘採能率向上のために「茶摘み協議会」が開催される。(写真③) | |
1929年 | 鹿児島県農事試験場でインド・アッサム種が播種。 | |
1939年 | 枕崎紅茶試験場の設置。 | |
1947年 | 国営茶原種農場が鹿児島県、静岡県、奈良県に設置される。 | |
1952年 | 茶の生産量が戦前の状態に復興。 | |
1971年 | 紅茶の輸入自由化。 | |
1972年 | 紅茶の生産量が減少し緑茶生産に力を入れる。 | |
1980年頃~ | 緑茶の生産量が 年前比で約1.5倍増加。 |
参考文献:『島津藩政時代の茶の歴史』(足立東平/鹿児島県経済部特産課:1956年)/ 『鹿児島県茶業史』(鹿児島県茶業振興連絡協議会:1986年刊)
/ 『年表 茶の世界史』(松崎芳郎/八坂書房)